就活したくない訳じゃないけど就労しても続きそうにないので小説書いて生活する覚悟が決まりつつある。まっすぐに死が見える
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近況:ただ死を待つ日々
8月の終わり、東京から来たKさんに会ったり親のもとに顔を出したりした後、身体に力が入らなくなり一週間近く家に引きこもった。引きこもりといっても食糧がなくなればコンビニに買いにいける程度のものだったので、まだマシと判断していた。しかしすっかり人とコミュニケーションを取る気力が萎えてしまい、サークルの人から来る連絡もすべて途絶させ、練習にも行かなくなったところ、すぐに同期が家まで生存確認をしにきた。ある程度の事情は前から説明しているが、サークルのみんなと馬鹿話で死ぬほど笑った帰り道に自死のことしか考えられないとはまだ言わない。まあそれは僕の問題で、面倒見の良い善良な人らによって、ひとまず生きながらえている。
いつまで……??
シオランの引くキルケゴールの逸話がTLに流れてきた。
「キルケゴールの語っているところによりますと、彼は、あるサロンで満座の者を笑わせて帰宅したところ、ただもう死にたいとしか思わなかったということですが、これはあってもおかしくない危機で、私にしても何度か確かめる機会がありました」。自分をキルケゴールなどに比するのもおこがましいことと思われるので、それ以上なにか言いたいこともない。シオラン読みたいけどやっぱりそこそこ値段張るのがね…
水谷緑『精神科ナースになったわけ』という漫画を買った。「死にたい気持ち」という章で自殺者の心理がテーマとなっている。あるうつ病者が閉鎖病棟からの外出許可を看護師に願い出る。外出や外泊を数回繰り返し、眠剤の使用頻度も減っているので、退院も検討し始めている人だった。外出許可の理由は大好きな野球観戦。
外出前の鈴木の様子は明るく、野球を楽しみにしている様子が伝わってくる。看護師も「(これまでこんなにがんばったんだから…)これからが楽しみですね 取り戻さなくちゃ」という言葉をかける。
その後、外出中に鈴木は自決する。衝動的に死を選んだのではなく、身辺整理などを徹底した上での計画的な死だった。治療者たちは突然の死に衝撃を受けるも、やがて自殺者の心理について、患者自身の言葉をもとに考察するようになる。
今の生活にドラッグとか入ってたら死ぬ確率が桁違いに上がるだろうなとつくづく思う。所詮つまらん学生風情で身辺整理の必要もほとんどない。それがまあ死なずにギリギリまで不貞寝する程度に収まっているので、マア、アリガタイか。ホンマニナ。
高校三年生の頃の記憶をフラッシュバックする夜があった。必ずしもこのブログで語ってきたような見方だけではなく、記憶の再生には新たな解釈が付き纏った。自分自身が楽になるための再解釈なら立派なもんだが、自分を追い詰めるために過去を利用しもする。
現在のことも過去のこともある程度はオープンにしつつ、それでも多くの人には何も語れない。今更薄っぺらい自分語りをして同情を惹き、それで何かマシになるかっていうと別に何も良くならなかった。不適切な語り口で不正に赦しを得ようとする悪徳とか。
核心として、クィアっぽい話をいくらか書こうと企図していたものの、なんだか自殺の話を書いただけで少し疲れてしまった。核心部分も近いうちに文章化せねばならないという何らかの力を感じる。
明日からは…
教授にメール。しないと卒業できないゾ。
バイト先に詫びを入れる。いい加減めんどくさい。
サークルの仕事。だるい。
歯科と眼科。コンタクトレンズに変えたい気がする。
女の子をデートに誘う。一日ぐらいなら耐えられるでしょう。生活でもないし。
死に向き合う。でも死の方は僕に向き合ってくれないっしょ。別にええですけど。
→未来へ
安ワインを飲んだせいかもしくは雑な雑炊を食べたせいか、消化器由来のダルさが頭の回転を止める。クソが。
あいかわらず体調は悪い。三年間に及んだ受験生活の間であれば、特に誰に連絡することもなかったが、いまは主に大学の教員に連絡をしなければならない状況にある。五月に入ってからほとんど授業には出ていない。連絡をしたところで単位が出るかどうかはわからない。先生も色々と慣れているんじゃないかって期待はしているが、期待が裏切られたときのことまで考えていられない。
そもそもは四月の終わりに風邪を引いたこと、そしてそれ以降なにも考えていられないこと。なにを記述し、どういった表情で内面を吐露し、自身の進む道を語るか。なにもわからない。本当になにも考えられない。
なにかを考えるためにブログを書く。
将来就職することを考える。就職に関しては身近な人のことがまず頭にある。つまり、姉と兄の就活であり、中高の先輩らの姿であり、Twitterで知っているだけの同世代の人間のなにかしらであり、大学の知り合いらと、まあ、まあまあ…
僕はものを食べるし怪物でもない。ただ凡俗として与えられた仕事はこなしながら生活を夢見るだろう。それでいい。
進学することはあまり考えないようにしている。なんといってもうちとこの学科の存在感で研究者としてやっていける自信はないので院進するなら別の専攻、別の大学へ行くことになるでしょうなあ。健康と学費。なにで稼ぐか?
ブログ以外のものを書くことでなにかを考えるべき。たとえばメールを書く必要に迫られている。大学の教員になにを書いて送れば「理解」は得られるか?書くべきことがらについて(つまり今回は自分の健康について)、ぜんぜん理解できてない気がする。単に混乱しているだけならそのうち解決できるんじゃないかとかてきとうに時間稼ぎもできよう。しかしながら。もはやデッドラインは超えたんじゃないか??????「明日はどっちだ?」とか自問していた明日は既にきたんじゃないか?????まだ23歳の身体はもう人生に間に合っていない精神を載せて止まらなくなったんじゃないか????
走り出した身体について書き続けること。これが2020年を目指す私の目標だろう。
ところで自殺することをよく考える。mental disorderな知り合いが周りに何人もいる(へいブラザー!)。23歳にもなるとそんなものかと勝手に諦めてるけど、意外なことに自殺者はまだいない。みんなギリギリのところで戦っているというのを知っている。ブラザーのためにできることがない。僕だって戦い続けるからさ。だから死ぬなよと言えないしだから死ねないとも言えない。ただここに存在していることを知っていてほしい。僕もお前を知っている。Yo Yo
周囲の環境は悪くない。慰撫と包摂の定型発達。中傷を目的とした怪文書をSNSで広めるBPD。擦り寄ってくるつまらない独身者…みんな気持ちのいい人たちです。愛すべき仲間たち。だから僕は大丈夫。まだしばらくはここでやっていける。
しょうもない華を咲かせてしまったという感は消えない。こんなんでも見続けりゃ慰めにはなるかもしらんが、これは救いではないっすよ。華。
とにかく毎日が孤独でどうしたって他者と向き合えない。それが一番悪いってわかってるからさーいいかげん助けてくれよ誰かー
さあ、先生になんてメールしようか。
ブログの存在は常に頭にあった。クリシェ的表現とどう距離を置くかみたいな意図があったと思う。別にそれはいい。
文芸趣味をやっていくと色々クリシェに出会う。最近中尾太一の詩集を改めて読み直していて語彙その他の多くが日本語ヒップホップ由来であることにようやく気づいた。もう何年も読んでいるのに。しかしヒップホップの知識がないのでクリシェと言えるかどうかいまいちピンとこない。これからヒップホップ趣味をやっていく?
クリシェとは何か。映画とかアニメとか見てて、いま見ているものがどこかで見たことのある景色なのか、まったく見たことのない映像なのか、自分の頭で頑張って考えるのはしんどい。他人のレビューを剽窃しよう。キュレートするよ毎日。
トレインスポッティング見た。スマドラとかハーブとかで人間が狂ってた時代は割とエモさをもって受け入れられてたっぽい。今は狂った人間は死んで白日の下に晒されたりもしたので割と冷静さがある。born slippyの使い方が完璧で、あとダイアンはマジやばかった。
トレインスポッティングを見た監督が作った交響詩篇エウレカセブンっていうアニメがあった。今日パチンコ屋の前を通ったらエウレカセブンAOの台が入ったっぽくて、初めてパチンコ屋に入ってみようかと思った。金が無い。自分で髪を切るのがうまくなった。
大昔からまったく同じ脚本が書かれ続けていたとしたら退屈さとは何か、面白さとは何か。文芸における意味とは何か。
文芸趣味をやっていくと色々クリシェを覚えるだろう。それはいい。文芸趣味を続けると色々クリシェを使って破壊的なことをやりたくなるか、クリシェを破壊したくなる日が来る。
文芸趣味をやっていない。クリシェについてぐだぐだ言っても仕方がない。「いいかげんクリシェに頼らずに自分の言葉(笑)でおもしろいこと言ってみろよ」という煽りはできる。できるけどやらない。不毛だからやらないんじゃなくておもしろいことを言われたくはないし煽りたくもない。
同じクリシェにつよいこだわりを見せている人がいる。人がいるので煽りを思いつく。多分その人は新たに作品を読み広げていくということをしていない。僕もそう。
ブログをやっていた。ブログをやっていたのは受験生の頃。死にそうだった。今もそう。少なからず文学方面に色気を見せていた頃だった。今はどう。
距離感とか別にいい。ポジショニングもやめよう。
クリシェを知らない。穴から這い出る。
「私は勉強不足だったので、」から始まり「というように勉強不足が明らかになった」で終わる日記を書きたい、書きたいか?そのように……
全世界おはよう
自分が正しく物を言っているかどうかを一番に気にする人は最悪で、とにかく最悪だと思う。自分が時代以外の何がしかに承認される必要があると思い込むの非常に悪いと思う。本当に素晴らしい時代に生まれた。時代のすべてに殉じたいという気持ちだけは本当だ。
私は国会前の彼らについて興味はないが…から始まるあれやこれやの後ろ(というより前段か)に潜むものについて察してあげるのが大人のマナー、社会しぐさなのだろうが、まあここでもなお気遣い方面で攻めていくのまだやれるんかな。誰が最後に笑うのかという問いの立て方が信用できる訳ないじゃん、てめーはここで死ぬんだよ!!!的な奇声とともに襲い掛かることをこちらに要求しているとしか思えない。この状況でもまだ笑っていられるか?とか陳腐な台詞すぎてとにかくひどいと思うんですが政治の文脈で出すとフム…となるのおかしくないですか!?!?!?!?ポジショントークの渦の中心に見出せるのはmental disorderの概念じゃないか???というのは拙速か?心療内科にはきちんと通っていますか?ストーンオーシャンは読みましたか?宇宙全体が加速しているにもかかわらず変わらず2015年の空間を削り取りながら生き延びている私がこのままだらだら生きていていい訳がないでしょう
一貫した日記を書きたい、そのような意思のもとに書かれている。
最近は女子大生から毎日何かしらメッセージが来るんですよ、どうですか?本当に死にたい
死〜〜
社会で起きる不幸のほとんど、すなわち意義申し立ての宛先がわからないという事態について2015年6月26日から(とメモにある)考えていたんですが、長期的には、国会や女子大生ではなく、自分がこの世の不幸を一身に受ける存在になり、そして神のもとへ……という気持ち。気持ちについてこう、良い感じに光明を求めていきたい。
トゥイター、パスポートに載ってる名前でアカウントを動かしてるので気になるんだったら検索してフォローするなりネトストするなり。各自、各自。
トゥイタアー、基本的に個人情報を隠す意味はなくてどっちかというと新作映画のネタバレを流さないようにしたり見ないようにしたりする方が大事。マッドマックスのネタバレ見るたびにドキドキが止まらないので明日あたり観に行く。
明日死ぬかもしれない。
隠す必要のないものはわざわざつなげる必要がないものでもありhで昔からフォローしてる人らなんかは逆に色々な出来事が起きるかもしれないので敬して遠ざける的な政治が、まず、生まれた。だってあなたをネトストしてる他者が僕のアカウント経由であなたに行為を始めたらなかなかのものでしょう?
社会!
で政治の行き着く果てに何があるとかはどうでもいいので各位においては適切な暴力を用いるなど健全な姿勢が求められ〜〜
さて、映画館行ったら詩集を買う金がなくなる。
小論文の勉強はまあしないといけなくて、 https://www.amazon.co.jp/dp/4863462832/ref=cm_sw_r_awd_8gB8ub1DZ94GE 買ったんだけど、そもそも「しないといけない」勉強を上手く出来たことが無いので、ウーム、ウームとは言うが一応四月から大学に進学できることが決まったんだからいいじゃあないか、と、そうは言ってもむしろ大学こそ勉強する場所であるからして、まあこれからこれから…
今のところスペイン語と英語の勉強をしたくてまあそろそろワナビなのもどうかということなのでやろう、やるぞ!!!やるだろうか。あとプログラミングをとりあえず始めるかというところで作りたいと思う物のイメージもまあまあ出てきたので技術が欲しいなあという。あと数学?まあコツコツコツコツ。
もうあんまり本とか読みたくないなという感じでそれでも詩を読むのはまだ維持しているので自分でもすぐに飽きるかと思っていただけに何よりであるなあと。
将来の話をしてみろよと言われるともちろん自意識の話に終始するんですが、僕は自分の運命に向き合いたい、それで自分の為にいろいろとやっていきたい、と思っているんじゃないだろうかと思うようになってきた最近。そう自分はものをつくっていきたい人間なんじゃないだろうかと思う。2015年に入ってからのいくつかの流れを自分の方に引き寄せると、そういう感じの線が一本通った感触がした。
何か面白いものをつくっていきたいしその為にいろいろ練習していかないとなあと思い、そこから目の前の課題にこう、上手いこと結び付けていく能力、それはもう何と言っても自分で訓練しないとなんとも。
ハッ、訓練の為の訓練、しないといけない……ここで循環しないようにいろいろ考えようか、というのが昨日今日。
明日はどうしようか。
何もない日だった。
人間には夢や希望に向かっていくエネルギーを、際限なく生み出す性質があるのかもしれない。普通は老いや病気に阻まれて発揮出来なくなっていくエネルギーも、充分に若い間にはかなりの無茶が出来るぐらいには出せることがある。人一人が死ぬぐらいの仕事を人間は容易に出来る。何故だろう。
戦場を駆け回って現実を伝えようとした人の話や民間警備会社を立ち上げて一旗揚げようと意気込む勇気(というか躁?)、あるいは数百年ぶりにカリフ制を蘇らせて地上を支配しようとする意志などについて僕は何も感じない。恐怖はあるかもしれない。
人間一人のエネルギーが怖いし自分のような人間が人並みの自己肯定感を獲得した結果にしでかしてしまうかもしれないことを思い浮かべるとそんなもの要らないという気がする。
平和的に人生を向上させていけるのならそれが一番なのでしばらくはそのような方向で進むであろう。
昨日は入学試験で明日も入学試験なので今日は一日何もしなかった。新しいプリキュアが良かった。
本当に死んだように生きられるならそれが良かったのかもしれないけどまあそういう訳でもないのだし。なかなか。
単純に書くと五年前から延々と何もかもが耐えられないときている。まったく……
もちろん少しはマシな日もいくらかあった、未だに僕が気狂いじゃないのは(僕は気狂いじゃないよな?)気紛れが上手く働いてきたおかげで。運が良かった。まったく。
自分の腕が二本あるのが許せない、読み書き出来ることに疲れた、誇りを持って死ぬということと何もなく生きるということの違い……最初の頃から今に至るまで結局この程度かと自分を除く何もかもに馬鹿にされている気がする、一斉に溜め息。
恨むべき人は自分を含めてもいない。これは本当。出会ってきた誰も彼も僕は愛している。これも本当。実際これまでずっと本当のことしか書かないように心がけてきた僕らしいことだ……だからこそ僕は気狂いじゃないんだよな。
僕の目は街一つ分ぐらいの大きさだから色々なものが見えるし見落としも大きい。許し難いことだ。どこかで誰かが自殺しても、昨日僕が告げた愛しているという言葉を今更思い返しながらゲロ吐いてる「友人」がトイレに縋っても、デモ行進が小中学生高校生を列に加えながら膨れ上がっても、よく知らない。飛び込んだ勇姿、便所の臭い、太鼓の音。
何もかも耐えられない僕がそのうち何かには耐えうるようになるだろうという観測を出した。まあなんとかなるであろうとか。
街より大きい僕の顔を誰も見たことがない。別にそれはいいんだけど。